初飛行から44年、国産の翼「YS11」国内便から引退

2006年09月30日13時34分

 国産唯一の旅客機「YS11」が30日午後、日本エアコミューター(JAC、鹿児島県)の沖永良部―鹿児島便を最後に、国内の定期運航便から引退する。初飛行から44年。愛着を持って長年乗務した人々、高度成長期に当時の航空技術の粋を集めて設計・製造に取り組んだ技術者。それぞれの思いを胸にこの日を迎えた。

 YS11は62年8月30日、名古屋空港(当時)で試作1号機が初飛行し、その後量産された機体が国内各地や、フィリピン、ブラジル、米国などの空を飛んだ。

 JACでは88年7月就航の鹿児島―沖永良部から、最大12機のYS11を福岡などに運航。退役するのは最後の2機だ。

 就航に合わせて初めて採用した客室乗務員8人のうちの1人が東村紀代子さん(41)。最初は飛行中に2回飲み物や雑誌をサービスするはずが、慣れなくて1回しかできなかった。全員が20代の新人だったため、手探りで細かなルールを決めた。

 巡航時で時速約200キロ速い後継機に乗る機会が増えたが、一番しっくりくるのが18年間乗務したYS11だ。「低い高度でゆっくり飛ぶYS11から見る桜島は、火口がはっきり見えて本当にきれい。お客さまに丁寧にアナウンスできた」と振り返る。

 同期の枦元(はぜもと)律子さん(38)は「仕事の楽しさ、厳しさを教えてくれた『同期』のような存在。本当にありがとうと言いたい」。

 30日、2人は沖永良部、福岡便がそれぞれYS11の最後の乗務となる。

 YS11は官民共同企業・日本航空機製造(日航製)が設計、生産、販売した。発足の59年から尾翼、その後、後部胴体や主翼の設計にもかかわった神奈川県藤沢市の鳥養鶴雄(とりかい・つるお)さん(75)は、「YS11は双発プロペラ機の代名詞として親しまれてきた。身近な空から消えるのは悔しい」と話す。

 開発で一番苦労したのは、テレビ中継もされた初飛行の後だった。

 翌年3月に来日した米連邦航空局(FAA)の担当者は、改善が必要だと指摘した。上下、左右、前後ともかじの利きが悪いなど問題がある。水平安定性が悪い――。運輸省(当時)の型式証明も、海外に売るうえで重要なFAAの証明も取れない危機に直面した。

 約1カ月間、工場に近い横浜市内に部下と泊まり込み、始発電車で出勤し、終電まで働いた。「『ひまがあれば図面をひけ』と号令をかけた」

 ほかの部門でも懸命に取り組み、性能は飛躍的に向上した。64年8月に運輸省、翌年、FAAからも型式証明を受け、量産に道筋がついた。

 YS11は頑丈という定評がある。航空会社幹部に「整備に手間がかからず、農耕馬みたいなところがいい」と言われた鳥養さんは、安全に余裕を持たせた、丁寧な設計へのねぎらいだと受け止めた。

 それだけに、「技術だけでなく安全の研究も航空が最先端。日本の民間の空から国産の飛行機が消える意味を改めて考えて欲しい」と話す。

 「飛行機好きにとって、本当に楽しい日々だった」。日航製と三菱重工で無線担当などを務めた東京都八王子市の和久光男さん(75)は、YS11が飛んだフィリピン、ブラジルなどで計5年間、整備士の指導などにあたった。

 だが、赤字を理由に試作機2機、量産180機で生産を打ち切られ、日航製は解散する。これ以降、国産旅客機は誕生していない。「YS11プロジェクトを反面教師に、若い人の力で再び国産機を飛ばしてほしい」。和久さんは願っている。
http://www.asahi.com/travel/news/TKY200609300174.html