吉本新喜劇雑感

岡八郎が死んだ。原哲男はまだ生きているが、花紀京は昏睡状態にあるということである。
下に記録してある新聞記事を読めばわかるように、岡八郎吉本新喜劇の第一期からいた人物であり、かつ座長もつとめている。歴史的な人物の死であることは留意しておくべきであろう。
吉本新喜劇は、この単語でちょろっと検索すれば明らかなように、テレビでは土曜日・日曜日の昼時に放送されており、土曜日学校から帰って、飯を食いながら見るものであった。そんなことを懐かしんでいても仕方ない。
吉本新喜劇の舞台はどこであるか。都市(おそらく大阪)の、きたない商店街の、食堂という場合が基本であろう。都市の遠景に通天閣が描かれている場合も少なくないことから、新世界あたりを考えればよいのかもしれないが、そこまで限定する必要はなかろう。
新喜劇の登場人物はだれか。食堂の経営者夫婦、常連の日雇い労働者、商店街の近所の人、ヤクザ、流れ者である。
新喜劇のテーマは何か。生活苦、借金、貧困、恋である。
もっともありがちな筋は、貧乏商店街のつぶれかけのうどん屋。借金で首が回らない夫婦と、金のことなど気にしない日雇いの常連との掛け合い。そこに突然現れる借金取りのヤクザ。商店街の人たちと常連でヤクザを退治。夫婦幸せ、などというものであろう。
もちろん、この他にもさまざまな設定がある。舞台は、船場の老舗とか、観光地のみやげもの屋とか、時にどこかの中小企業とか様々名であり、テーマも時にとんでもないものが出る場合もある。しかし、吉本新喜劇の「形」を抽出すれば以上の荒っぽいまとめでもそう的をはずしてはいないだろう。
このような舞台設定で思い浮かぶのが、ドリフターズのコントに出てくる世界である。ドリフの市井を扱ったコントも同じく下町の貧乏家族であり、決して裕福な人々が出ることはない。
キューポラのある街」(1962、日本)で、主人公がバラックが建ち並ぶ街の中をあるいている時、バックに植木等の「スーダラ節」が流れているという印象的な場面がある。植木等が、サラリーマンのお気楽生活を歌い、映画の中で、優雅な都市生活を送り、警備員から社長になるというありえない立身出世を遂げている時、吉永小百合バラックの街の中をあるいていたのである。
吉本新喜劇はどうか、まさにそれと同時期に、発展とは無縁な、その日暮らしの中での笑いを作り上げているではないか。ドリフはどうか、同時期の多く作られたドリフの映画の救いのなさといったらどうしようもない。どちらも、高度成長の中で取り残された人々の目線で、その生活の中から笑いを作り出しているのである。
吉本新喜劇とドリフのコントの普遍性はここから生まれ出ているに違いない。