盆踊り・続

先日調査した盆踊りのテープにけっこうはまっている。
青年団が音頭をとっていて、順番に音頭取りを変わっていく*1のだが、上手い人でもそんなに上手くない。
しかし、これこそ本物の盆踊りであると思わせるものがある。上手い人が音頭をとれば踊りに生気がみなぎり、下手な人が音頭をとれば失笑とともに踊りがだれる。それだけでなく、下手な音頭とりが音頭を取れば、おどっている人たちのかけ声が大きくなり、音頭取りをはげましている。音頭取りと踊り手が一体となっているのである。
私の地元には、臨時列車が出るくらいの巨大盆踊り大会がある。それに地域の盆通りが吸収されて、個別地域の盆踊りはぱっとしない。巨大盆踊りは、巨大であるだけあって、音頭取りもプロ並みの人たちが取っている。そこに素人がでる幕はないのである。それでは、地域の盆踊りはどうかというと、調査をした村のように組織的=村的に音頭取りが養成されてはいない。テープにあわせて人々が踊るのみである。
事務局の某氏は、「こんなん、この辺では普通というか、ここですごいゆうたらあきませんよ。」と言っていたが、我が地域の状況から見ればすごいの一言である。
村レベルで盆踊りを運営する組織や、音頭取りそのものなどを運営できていて、それを中年ではなく、正真正銘の青年が担っているという事実にただただ驚嘆するばかりである。
村というものが、衰退の一途をたどっており、それを論じようとするのはアナクロニズムのそしりを免れないような雰囲気は悲しいかな某学問分野でも否定できない。しかし、泉州のある地域の盆踊りではあるが、そこではまさに「村」というものが再生産されているのである。ここでは「村」は時代錯誤でも、衰退の一途を辿るものでもない。村は青年がその若い力を発散するに足る物である。すなわち、村がいきているのである。

*1:平等ではなく、一番のきかせどころは上手い人が音頭をとっている。