貧乏考

すでに日本で貧困が社会問題とならなくなって久しい。
ドリフが映画で活躍していた頃は、貧困がテーマとなり得た。ドリフは貧民であり、貧困を脱却しようとあがきながら、ついに貧困から抜け出せないことを喜劇として表現したのだ。すばらしい。吉本新喜劇の本質もそうだろう。
さて、世の中から貧困は駆逐されたかのように見えるが、貧乏まで駆逐されたわけではないらしい。ここ数年、数百万円の借金に加えて、貧乏にあえいできたのであるが、ほんの半年ほど前、突然、何のまえぶれもなく貧乏から脱却してしまった。
貧乏から脱却したと言っても、年収120万円+αが、年収300万円+αになったに過ぎない。私の同級生にして、学部卒業と同時にまっとうな人生を歩むことを選択した人間はもっともらっているだろう。なんといっても、300万円+αには社会保障が入っていないのである。「かれらから見れば」貧乏に違いないが、「私の主観からみれば」圧倒的な金持ちになったのである。
貧困は絶対的基準であるが、貧乏はどうも主観的な基準らしい。
年収120万円+αでは、お金という物がほとんど貯まらない。貯まったとしても、「東京に学会に行く」と言えばあっという間に赤字になるくらいの貯まり具合である。そういうのは貯まったとは言わないだろう。
しかし、年収300万円+αだとお金を貯めることができる。すばらしい。感動的である。給料日前日にお金が余っている。財布の中にも、銀行の口座にもお金がある。電話代も払ったのに、NHKの集金にも気前よくはいよっと渡したのに、新聞代も「ちょっとお金ないんで。。。」と言わなかったのにお金が残っている。それも財布と銀行の両方に。涙を流して雇い主に感謝を申し上げたい。
しかし、この夢のような境遇もいつ夢幻のごとく消え去ってしまうか、それは誰にも分からない。来年は生きてそうな気がするが、再来年は想像もできない。数年先など知るよしもない。
ここで対処法は二種類あるだろう。
1)最悪の時代を少しでも先延ばしにするために貯蓄に励む
2)最悪の時代には購買力が限りなく0になるので、それまでに買えるものは買っておく
今日、賢明なる後輩にお話を伺ったところ、1を選択すべきであるとの御託宣を得た。貧乏でなければ、貧乏でなければそれは正しい。
しかし、年収120万円になると、生活に必要なもの以外にお金をだすことは困難になってくることを忘れてはいけない。この生活を送っていると、金のかかる商売道具はそろえることができない。もう、竹藪から1億円をひらったり、用水路で3千万円をひろったりしない限り数万円といった買い物はできないのである。そう、数万円の買い物を想像するために数千万円を想像しなければならないのである。
本当に賢明な選択は、金がある内に買えるものは買っておく、ということである。

内田百間は、金がないのでほしい物は我慢して、我慢してついに物欲がなくなったという。しかし、かの百間先生は、借金をしても人力車での通勤は辞さなかった*1のである。そして、商売道具の本まで差し押さえられ、職も辞して、数年間、借金取りから逃げるために逼塞を余儀なくして、ようやく至った境地であることを忘れてはいけない。

江戸っ子は宵越しの金は持たないという。その心はこういうことであろう。江戸っ子はもっと潔いとすれば、もう私の及ぶところではないのである。

*1:朝起きることができないので、授業に間に合うには人力車に乗らざるを得なかったのである。